2017年1月31日火曜日


イエス様の御心の変換と愛の呼ばれる
201727

私の御心愛すべき使途たち、ファティマのメッセージは団結のメッセージもであるあなたたちを知らなければいけない。団結の贈り物は私のみ心と私の天国の母の汚れなくと痛みな心聖霊を偽造とセメントした深いと精神的な団結から来ます、この組合は団結の贈り物の果実として生まれます。
この団結はファティマで頼みました、私の聖母は戦争終わると兵士びと家に帰りますを伝えた時に:これは家族と国民の団結でした。聖母はファティマで彼女の汚れなくと痛みな御心教会の団結を頼んだけれども今日は愛すべき子たちマリアとイエスの御心の時間で私は救い主と神として団結を頼みに来ます:教会は団結の贈り物を求めます、すべてのクリスチャンは聖教皇と一緒にと司祭団結の贈り物を求めます:家族は団結の贈り物を求めます、この最後の時間私たちの御心の使途たちは祈りで団結の贈り物を求めます。最後の時間私の小さな使途たち、団結に生きなさい、団結で開けなさい、私たちの御心で団結しなさい、互い愛しと耐えなさい、互い奨励と許しなさい
皆、私たち聖母の軍、心の出国に付随しなさい。愛すべき子たち、私の御心を慰める小さなフランシスコをしたのようなご招待します。罪びとの変換、教皇のために、司祭のためにを私の愛すべきジャシンタをしたのような犠牲な魂としてをささげてご招待します。今こそ、世界にマリアとイエスの御心の献身を普及しなさい。私の天国の母の汚れなきな御心の献身の普及する私の娘ルシアに使命を託されたでも、あなたたちにこの最後の時間にそして小さなエリアス私たちの御心の使途たちを先導する、聖霊の愛するによって私たちのみ心の献身を託されると求められます。
私の忠実な残り、慰めるのために、犠牲な魂をささげるのために、そして私の聖母の御心の勝利の通して世界で私の御心の聖餐の君臨を広げる。コリント信徒への手紙1章を読みなさい。私の祝福はあなたたちを与えます:父と子と聖霊み名によって。アーメン。

コリントの信徒への手紙
1


神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、
コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。
あなたがたはキリストにあって、すべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、
キリストのためのあかしが、あなたがたのうちに確かなものとされ、
こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。
主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。
神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。
10 
さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。
11 
わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。
12 
はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。
13 
キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。
14 
わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがない。
15 
それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、だれにも言われることのないためである。
16 
もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。
17 
いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。
18 
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
19 
すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。
20 
知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
21 
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
22 
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
23 
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
25 
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
26 
兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
27 
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
28 
有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
29 
それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
30 
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
31 
それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである


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